第2270号 どんどん姿を消す「町の本屋さん」
2024.11.01
1年中で最もしのぎやすい季節、秋がやってきた。さらに、そこには秋の夜長、ゆったりと本を読むという至福の愉しみが待っている。「読書の秋」到来である。6人兄弟の末っ子で、一番上の兄とは15歳離れていて、家の中には本がそこら中に転がっていた。岩波新書から月刊「少年」「少女倶楽部」まで、年齢に応じて読める本が読み放題の環境の中で育った。さらには、幼少のころに本なら何でもという濫読癖もついてしまった。とりわけ、この秋はテレビを見なくなって半年、読書の秋に拍車がかかっている。
さて、その本を読むにも一番重要な役割を担ってきた書店が減り続けているという。それも昔からあった町の本屋さんがどんどん姿を消している。気軽に立ち読みをしようにも肝心の書店が無くなっているのだ。書店のない街が増えていると新聞が報じて話題になったことがあったが、事態はその後も加速度的に進行している。日書連にはこの何年か、「近くに書店がない、どこで本を買えばいいですか」という問い合わせが増えたという。ネットを使っていない人はアマゾンも使えず、本を買うこと自体が困難になっているのだ。
確かに今はネット書店で本を買う人が増えたのだが、書店にはネット書店にない大きな楽しみがあった。新刊コーナーでどんな本が発売されたか見たり、ノンフィクションの棚を覗いたり、雑誌もいまどんな特集をやっているのか店頭を見るのが楽しみだった。書店には、本や雑誌との新しい出会いがあったのだ。
この20年で日本の書店は半減した。2001年に2万1千店あった新刊書店は、1万店を割った。活字離れとアマゾンの影響で、と常套句のようにいわれる。しかし、毎日新聞社が実施した読書に関する世論調査でも読書率の顕著な低下はない。ここ数年は、確かに低下傾向にあるが、本を読む人が20年前の半分になったというようなことはない。書店の数が減った原因は複雑だ。まず新刊市場の縮小がある。1990年代なかばをピークに縮小し続け、半分以下になった。市場が半減して書店も半減したのだから帳尻が合っているようにも思うが、そう単純なものでもない。落ち込みが激しいのは雑誌だ。総売上はピーク時の3分の1。雑誌はもう商売として崩壊しているという。
世の中、バブル崩壊からずーっと不景気が続いている。貧乏な人が増えた。さらにインターネットの普及とスマートフォンの登場が情報環境を一変させた。昔は雑誌を眺めることでしていた気晴らしと暇つぶしをスマホでするようになった。書店をめぐる厳しい環境はまだ続く。
さて、その本を読むにも一番重要な役割を担ってきた書店が減り続けているという。それも昔からあった町の本屋さんがどんどん姿を消している。気軽に立ち読みをしようにも肝心の書店が無くなっているのだ。書店のない街が増えていると新聞が報じて話題になったことがあったが、事態はその後も加速度的に進行している。日書連にはこの何年か、「近くに書店がない、どこで本を買えばいいですか」という問い合わせが増えたという。ネットを使っていない人はアマゾンも使えず、本を買うこと自体が困難になっているのだ。
確かに今はネット書店で本を買う人が増えたのだが、書店にはネット書店にない大きな楽しみがあった。新刊コーナーでどんな本が発売されたか見たり、ノンフィクションの棚を覗いたり、雑誌もいまどんな特集をやっているのか店頭を見るのが楽しみだった。書店には、本や雑誌との新しい出会いがあったのだ。
この20年で日本の書店は半減した。2001年に2万1千店あった新刊書店は、1万店を割った。活字離れとアマゾンの影響で、と常套句のようにいわれる。しかし、毎日新聞社が実施した読書に関する世論調査でも読書率の顕著な低下はない。ここ数年は、確かに低下傾向にあるが、本を読む人が20年前の半分になったというようなことはない。書店の数が減った原因は複雑だ。まず新刊市場の縮小がある。1990年代なかばをピークに縮小し続け、半分以下になった。市場が半減して書店も半減したのだから帳尻が合っているようにも思うが、そう単純なものでもない。落ち込みが激しいのは雑誌だ。総売上はピーク時の3分の1。雑誌はもう商売として崩壊しているという。
世の中、バブル崩壊からずーっと不景気が続いている。貧乏な人が増えた。さらにインターネットの普及とスマートフォンの登場が情報環境を一変させた。昔は雑誌を眺めることでしていた気晴らしと暇つぶしをスマホでするようになった。書店をめぐる厳しい環境はまだ続く。
第2269号 令和の「米騒動」を考える
2024.10.15
今日(10月6日)も、日本一長い天神橋筋商店街は歩くのもままならないほど人で溢れ返っている。その大半は、韓国、台湾、香港などのアジアからやってきた旅行客で、家族連れと思しき人達が大声で喋りながら闊歩している。国策で訪日を制限している中国からの人達がいなくてこの有り様なのだ。小欄が行きつけの小さな喫茶店まで数人連れで入ってくる。店内はとてもざわついて、静かに新聞を読みながらコーヒーを飲む雰囲気ではない。この訪日ブーム、いつまで続くのだろうと思ってしまう。
そんな中の8月、とんでもない事態が起きた。店頭から米が消えたというのだ。令和6年8月現在、新聞やテレビで米が無い、と騒がれている。実際にスーパーの店頭に足を運ぶと多くのスーパーで米売場の商品が無くなり、「入荷予定なし」などの記載が見られた。現在、流通しているのは主に令和5年産の米である。9月から10月にその年の新米が出るため、8月は前年産米の在庫を消化するタイミングであり、米の在庫量は少なくなる傾向にあるが、それでも小売店頭から米が無くなることは珍しい。なぜ、令和5年産米は店頭から消えたのか。令和5年は、米に関していえば「異常」な年であった。日本で一番、米の生産量が多い都道府県である新潟県の米の1等米比率が例年は80%程度であるのに対し、コシヒカリ 、うるち米全体で過去最低を記録した。令和5年産米は、新潟を筆頭に全国で1等米比率が低い結果となった。
その要因は、記録的な夏の暑さによる高温障害といわれている。高温障害が発生すると米が白くなってしまい、等級が下がる要因となる。出穂後に台風などの影響でフェーン現象が重なったことで高温障害が発生したほか、新潟においては8月の降水量が少なく、水不足が追い打ちをかけたといわれている。
農水省による米の作況指数は101であったことから、等級は低いものの米の量は確保できたと考えられたが、令和5年産米の場合、高温障害の影響からか精米したときに割れが発生するなどの要因で、精米の歩留まりが非常に悪かったといわれている。そのため、精米歩留りを考慮すると実際の作況は100を切っているものと思われる。
高温障害による米の品質低下と、それによる精米歩留りの悪化によって、令和5年は「隠れた米の不作の年」であったといえる。とくに最近は、お米はあって当然と思われてきた。当たり前と思っていたことが、実はそのことに携っている人達のたゆまぬ努力の賜物でもあったのだ。
そんな中の8月、とんでもない事態が起きた。店頭から米が消えたというのだ。令和6年8月現在、新聞やテレビで米が無い、と騒がれている。実際にスーパーの店頭に足を運ぶと多くのスーパーで米売場の商品が無くなり、「入荷予定なし」などの記載が見られた。現在、流通しているのは主に令和5年産の米である。9月から10月にその年の新米が出るため、8月は前年産米の在庫を消化するタイミングであり、米の在庫量は少なくなる傾向にあるが、それでも小売店頭から米が無くなることは珍しい。なぜ、令和5年産米は店頭から消えたのか。令和5年は、米に関していえば「異常」な年であった。日本で一番、米の生産量が多い都道府県である新潟県の米の1等米比率が例年は80%程度であるのに対し、コシヒカリ 、うるち米全体で過去最低を記録した。令和5年産米は、新潟を筆頭に全国で1等米比率が低い結果となった。
その要因は、記録的な夏の暑さによる高温障害といわれている。高温障害が発生すると米が白くなってしまい、等級が下がる要因となる。出穂後に台風などの影響でフェーン現象が重なったことで高温障害が発生したほか、新潟においては8月の降水量が少なく、水不足が追い打ちをかけたといわれている。
農水省による米の作況指数は101であったことから、等級は低いものの米の量は確保できたと考えられたが、令和5年産米の場合、高温障害の影響からか精米したときに割れが発生するなどの要因で、精米の歩留まりが非常に悪かったといわれている。そのため、精米歩留りを考慮すると実際の作況は100を切っているものと思われる。
高温障害による米の品質低下と、それによる精米歩留りの悪化によって、令和5年は「隠れた米の不作の年」であったといえる。とくに最近は、お米はあって当然と思われてきた。当たり前と思っていたことが、実はそのことに携っている人達のたゆまぬ努力の賜物でもあったのだ。
第2268号 今年も「ヤーンボミング」の季節がやってきた
2024.10.01
今月、マイドームおおさかで開かれた「OSAKA手づくりフェア2024」は2日間で3万人を動員、コロナ禍前の水準に戻り、会場は千客万来の賑わいを見せた。手づくり関連のイベントに関しては、今まで開催されることが当たり前のように感じてきたが、その裏に主催者の並々ならぬ労力が感じとれるイベントとなった。
わが国で、手づくり関連のイベントがはじめて開かれたのは、東京や大阪ではなく、京都だったと記憶する。新聞を紐解いても、1979年(昭和54年)に京都市勧業館(現在のみやこめっせ)で開かれ、1万人を動員したとある。そして1980年代に入って、東京て日本ホビーショーがスタート。以後50年近くの歳月が流れたが、コロナ禍を除いて途切れることなく開催されてきた。日本ホビーショー、福岡の手づくりフェアin九州、名古屋のハンドクラフトフェアNAGOYA、OSAKA手づくりフェア、広島手づくりフェアなどが開かれてきた。しかし、コロナ禍でそれらのすべてが無くなってしまった時期があった。業界に牽引役がなくなり、活気に乏しい時期が続いた。
業界のイベントには、ハンドメイドを通して人が集うことの温かさ、楽しさ、そしてやさしさをアピールする力があり、多くの手づくりファンを魅了し続けてきた。展示会の持つパワーは業界を支えるひとつの柱となっている。
そんな中、業界が仕掛けるイベントではなく、地域ぐるみの楽しいイベントが11月に行われる。東京・豊島区の都立南池袋公園の木々にニットアートを飾り付けるワークショップ「としま編んでつなぐまちアート2024」で、今年で4回目を迎える。この作業を行っているのは、豊島区と地域住民で運営する「南池袋公園をよくする会」で、園の魅力向上のための取り組みに参画している。 今年もサンシャインシティとエリアマネジメンとともにプロジェクトチームの一員として、新しい池袋のアート&カルチャーを創出。このイベントはすでに9月から来年1月まで実施されている。
これらのチームメンバーにより、2021年より始まった「としま編んでつなぐまちアート」は、編みもので公園の木々・建物を飾るニットアート「ヤーンボミング」を通して、池袋に愛着を持つ人々と一緒に新しい池袋のアート&カルチャーを創出するプロジェクト。豊島区立南池袋公園を含む池袋エリア内の8か所でニットアートを展示し、池袋のまちを彩っている。そして。今年も地域の人達と一緒に制作したニットアートを公園の木々に飾りつけるワークショップも開催される。
わが国で、手づくり関連のイベントがはじめて開かれたのは、東京や大阪ではなく、京都だったと記憶する。新聞を紐解いても、1979年(昭和54年)に京都市勧業館(現在のみやこめっせ)で開かれ、1万人を動員したとある。そして1980年代に入って、東京て日本ホビーショーがスタート。以後50年近くの歳月が流れたが、コロナ禍を除いて途切れることなく開催されてきた。日本ホビーショー、福岡の手づくりフェアin九州、名古屋のハンドクラフトフェアNAGOYA、OSAKA手づくりフェア、広島手づくりフェアなどが開かれてきた。しかし、コロナ禍でそれらのすべてが無くなってしまった時期があった。業界に牽引役がなくなり、活気に乏しい時期が続いた。
業界のイベントには、ハンドメイドを通して人が集うことの温かさ、楽しさ、そしてやさしさをアピールする力があり、多くの手づくりファンを魅了し続けてきた。展示会の持つパワーは業界を支えるひとつの柱となっている。
そんな中、業界が仕掛けるイベントではなく、地域ぐるみの楽しいイベントが11月に行われる。東京・豊島区の都立南池袋公園の木々にニットアートを飾り付けるワークショップ「としま編んでつなぐまちアート2024」で、今年で4回目を迎える。この作業を行っているのは、豊島区と地域住民で運営する「南池袋公園をよくする会」で、園の魅力向上のための取り組みに参画している。 今年もサンシャインシティとエリアマネジメンとともにプロジェクトチームの一員として、新しい池袋のアート&カルチャーを創出。このイベントはすでに9月から来年1月まで実施されている。
これらのチームメンバーにより、2021年より始まった「としま編んでつなぐまちアート」は、編みもので公園の木々・建物を飾るニットアート「ヤーンボミング」を通して、池袋に愛着を持つ人々と一緒に新しい池袋のアート&カルチャーを創出するプロジェクト。豊島区立南池袋公園を含む池袋エリア内の8か所でニットアートを展示し、池袋のまちを彩っている。そして。今年も地域の人達と一緒に制作したニットアートを公園の木々に飾りつけるワークショップも開催される。